歴史

歴史詳細

御霊会

疫病や厄災の源となる御霊を鎮めるために起こった御霊会とは

疫神や政治的に失脚し亡くなった人の霊などが、災いと結びつけられて「御霊」(ごりょう)と恐れられました。疫病や厄災が起こると、原因である御霊を鎮めるために祭礼が行われることを「御霊会」(ごりょうえ)と呼びます。
医療が未発達な時代に疫病の原因を、目に見えない存在や祟りや呪いであると信じられてきたからです。臨時的に行い、祭壇に神饌(しんせん)を捧げて御霊の御心を和ませ、京の中心部から京外へとお遷りいただくことが御霊会です。
正暦5年(994)に疫神の為の神輿を設え船岡山に安置し神慮を慰め疫病鎮めを祈りました。数年経ずして、長保3年(1001)に疫神を船岡山から現在の地に遷し奉り祭礼が執り行われました。以上を紫野と呼ばれる地域で行なわれたことから紫野御霊会と呼ばれ、これが当社の創祀となります。

今宮祭

今宮祭は平安時代の「紫野御霊会」に始まって以来、
由緒と伝統のある「西陣の祭」として、毎年5月今日まで営まれ続けている

▲ 祭礼の先導を務める今宮剣鉾

長保3年(1001)の「紫野御霊会」に始まり、中世まで長らく公の祭として営まれましたが、近衛天皇の久寿元年(1154)4月、「夜須礼」(やすらい)で今宮に詣でるのが余りに華美に過ぎるということで禁止され、それとともに「今宮祭」も衰えていき、応仁の乱をはじめ幾多の戦火を受けて中絶していったようです。
近世に入ると、五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院が西陣の出身であり、その故郷を思う気持ちと西陣・大宮郷・鷹峯など産子地域の民衆の力の結集により再び復興し、昔のような華やかさと賑わいを取り戻しました。
このように、多くの困難を乗り越え今日まで千年以上営み続けられてきました。

【神輿】

当社には、あぐい神輿・鷹神輿・大宮神輿の三基あります。大宮神輿は文禄3年(1593)豊臣秀吉の奇進により造営と語り継がれ、その後、元禄7年(1694)に西陣生れの産子徳川五代将軍綱吉公生母桂昌院(お玉さん)の寄進により大修復されました。
鷹神輿・大宮神輿の八角形の神輿は京都中の神輿の一割にも満たないものであり、官祭としての起源をもつ故、三基とも菊の御紋が入り、大宮神輿は豊太閤の寄進によることから、八角形八面の御屋根には菊の御紋四面と豊臣家の家紋、五三の桐四面となっています。そうした造営の経緯もあり神輿の錺金具、全国や京都の伝統芸術工芸の技を集め尽くした、豪奢な京都一の神輿とも云われます。
総重量は大宮、鷹神輿ともに約二屯七五〇貫とも云われ、御屋根の大鳳凰は三〇瓩(キログラム)、小鳳凰一箇三瓩、蕨一箇十三瓩、瓔珞一面二〇瓩で、八面計一六〇瓩と、大人が二人分以上の重量になります。これだけの重量の神輿は京都中を隈なく探しても他になく、年一度の祭礼巡幸は重厚豪華な錺金具を備え動く様は文化財と云えます。

【祭鉾】

剣鉾(けんほこ)とも云い、長い棹の上に1mばかりの剣先をたて、剣先の根元には金細工で透かした飾物をつけ鈴を釣り、「吹散」(ふきちり)という長い比礼をたらしたもので、その長さは約6mに及びます。飾物は鉾毎に異なった形をし、それを鉾の名称にしています。
鉾は、棹で差す鉾を「指鉾」(さしぼこ)、枠組みしてかつぐ鉾を「荷鉾」(にないぼこ)と呼びます。祭鉾は造られた時代により元禄以前のものを「千本鉾」、元禄以降のものを「京鉾」と呼びます。
「千本鉾」は、沢瀉鉾・龍鉾・牡丹鉾・柏鉾・枇杷鉾・松鉾・菊鉾・扇鉾。「京鉾」は、劔鉾・蝶鉾・葵鉾・蓮鉾。

見どころ

大きさ、重さともに京都一とも言われる神輿を総勢100人もの男たちが 舁く(担ぐ)姿は圧巻です。
(★印箇所 ▶▶▶ 巡幸経路マップはこちらをクリック

やすらい祭

重要無形民俗文化財の指定を受け「鞍馬の火祭」「太秦の牛祭」とともに
京の三奇祭の一つとされる「やすらい祭」

文献上に表される「夜須礼」(やすらい)は、勅をもって禁じられることに始まっています。
「久寿元年四月、近日京中児女、備風流調二鼓笛、参紫野社、世號之夜須礼、有勅禁止」『百錬抄』
平安末期、風流を凝らし、紫野社へ詣でるやすらいは、その行装が華美に過ぎたのか勅命によって禁止されました。当時、今宮神社は「紫野社」とも呼ばれていました。「やすらい」とは、「花鎮めの祭」で、「安良居」や「夜須礼」と記されています。

現在では陽春開花絢爛の4月第2日曜日に行われております。
「行列」の先頭は頂(てっぺん)と云い裃(はかま)を着用し、手には杖を持った長老が担います。次に「今宮やすらい」旗がつき、幸鉾(さいのほこ)・御幣持ち(ごへいもち)・練り衆の指揮をとる督殿(こうどの)・鞨鼓(かっこ)[子鬼]・大鬼・花傘・音頭とり・囃子方と続きます。鞨鼓は胸につけた小鼓を打ち、緋の大袖様をまとった赤毛黒毛の大鬼が、太鼓や鉦を打ちながら踊ります。祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。

見どころ

今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。
桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。「上野やすらい」と前後して「川上やすらい」も境内へ到着します。二つのやすらい踊の特徴を見比べるのも興味あるところです。

産子地域

産土神とは生まれた土地の守護神であり、その土地神を奉じる者は産子といわれる。

産土神(うぶすながみ)とは生まれた土地の守護神のことです。その土地神を奉じる者を産子(うぶこ)といいます。
古の時代、氏(うじ)の祖先神や守護神のことを氏神(うじがみ)として祀っていたのが、人の営みが歴史的変遷の中で血縁関係から地縁関係へと展開し、産土神と氏神が混同されるようになりました。
徳川幕府京都奉行所の『京都御役所向大概覚書』「享保二年」(1717)によると、東は西堀川通り限り(但し、一条通より北は小川通の西側限り)、西は七本松通り限り、南は二条通り北側限り(二条御城番の北の方御役屋敷まで)、北は鷹峯千束村上限りとあり、現状もほぼこれと同じです。

若宮社

古きより子宝祈願を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わう、若宮社の変遷

この紫野の地には平安建都の以前より疫神を祀る社があったと伝わります。
当時には愛宕(おたぎ)郡鷹峯に鎮座した愛宕社の神が、その疫神の鎮さえの神であったとされています。
愛宕社は伊弉那美神を御祭神とし、子宝・安産の御神徳を以って信仰の篤い社です。天応元年(781)、鷹峯の愛宕社は慶俊僧都・和気清麻呂により王城鎮護の神として今の愛宕山上へと遷されていましたが、その遷座にあたって御分霊をこの紫野の地にいただき、疫社相殿の若宮神として創祀することとなりました。
弘仁元年(810)、薬子の変収束のあと、嵯峨天皇は戦勝祈願の誓いをもって有智子内親王を斎王とし、紫野雲林院村に座所をおかれました(※)。これが賀茂斎院の始まりであり、その座地の名から紫野斎院とも呼ばれました。紫野に斎院を興すにあたっては、薬子の変に処罰された藤原薬子や藤原仲成らの御霊を恐んで、鎮疫の若宮神が相坐す紫野の疫社に併せ鎮め祀ったと考えられます。
長保元年(1001)、都に蔓延する疫病を鎮めるため朝廷は疫神を祀る紫野の地において御霊会を修しました。新たに神殿を造営して疫神とともに三神を創祀し、この新たな社を今宮と号しました。このとき、疫社の相殿神として祀られていた若宮神並びに御霊神(現在向かって左に若宮と号す)は別社に遷し合せ祀られ、ここに今宮社が成立するとともに境内末社としての若宮社が形成されることとなりました。
建暦二年(1212)、紫野斎院は廃絶され、歴代賀茂斎王の霊は斎院の創祀に由縁のある紫野の若宮社へと合祀されました。こののち若宮社は若宮神・御霊神・紫野斎院の相殿神の社となり、お社の名が紫野斎院とも呼ばれるようになっていきました。
元禄六年(1693)から翌七年にかけて、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の肝いりで大規模な境内造営が行われ、ほぼ現在の境内社殿配置が整えられました。当社に伝わる『元禄六年戴日記』には「古之本社アラマシ之図」としてその桂昌院造営前の境内図が残されています。図には、本社殿の北西の辺り鷹峯を指す方に相殿と記され、若宮社と紫野斎院が相殿の社として祀られていたことがわかります。元禄の御造営で、若宮社は本社殿の北西から南西の方東の正門に向い合う位置へと遷され、社殿の再配置に色濃く反映された桂昌院の願いの中でも若宮社には格別な思いが込められていたことが伺えます。
この頃には、今宮社への信仰はかつての御霊鎮めから、桂昌院の愛郷の思いが示すように氏子地域の護霊すなわち護り神へとその性格を変えていきました。それとともに若宮社も子宝・安産の神としての信仰が強まっていったものと思われます。桂昌院の一番の心配は綱吉に世継ぎの男子がいないことでした。
古来、子宝授けの信仰篤い愛宕神・若宮社を遷営し、併せて拝殿を造営した桂昌院の思いは、氏神の社今宮に対する崇敬は固よりとして、若宮の社への世継の誕生の願いにほかならないのです。
今宮祭の御車として今も巡幸する御牛車が、桂昌院より寄進されています。
現在、御車は若宮社の相殿神若宮の神霊を戴いて、かつて賀茂斎院がおかれていたあたり、西社の町の人々によって供奉され巡幸しております。
若宮社の成り立ちは時代とともに変遷を辿ってきましたが、御祭神への子宝信仰は古より変わらず続いており、そして今もまた、その神前に子宝祈願祭を斎行し良きしるしの兆すことを願う人々で賑わっています。

※ 薬子の変(810)に際し、嵯峨天皇は賀茂大神に対して、対立する平城上皇との争いに勝利することができたならば、大神に皇女を捧げ神迎えの
  儀式に奉仕させましょうとの祈願をかけました。

玉の輿

西陣の八百屋に生まれ、後に将軍の母となり従一位の位まで昇りつめ「玉の輿」の語源となった桂昌院

徳川将軍五代将軍綱吉公の生母桂昌院(けいしょういん)は、西陣の八百屋に生まれ、その名は「お玉さん」と伝えられます。
三代将軍家光の側室にあがり、後に将軍の生母として大奥で際立った華やぎの時を過ごし、従一位という女性として最高位にまで昇り詰めた事から「玉の輿」の語義の起こりともされています。
桂昌院は故郷である西陣の興隆に努めるとともに、産土の社今宮神社の再興にも力を尽くし、社領百石を寄進して社殿を修復、四基の祭鉾も新たに設えられ今宮の祭礼は賑わいを極めたと云われています。

絵図
文化財
重要文化財
  • 線刻四面石仏
登録有形文化財
  • 今宮神社本殿
  • 今宮神社拝殿
  • 絵馬舎
  • 若宮社
  • 地主社
  • 月読社
  • 八社
  • 日吉社
  • 八幡社
  • 大将軍社
  • 宗像社
  • 祭器庫
  • 神輿庫
  • 手水舎
  • 楼門 東西回廊
  • 東門 南北築地塀
  • 御旅所権殿社
  • 御旅所神輿奉安殿
  • 御旅所能舞台
  • 御旅所鏡の間
ページTOP