境内

境内

今宮神社では「本社」や「疫社」をはじめ、多くの社が鎮座しております。

詳細案内

御祭神、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御子で皇祖天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御妃であり、天火明命(あめのほあかりのみこと)邇々杵尊(ににぎのみこと)の御母にあたる。別に天栲幡千幡姫命(あめのたくはたちはたひめのみこと)、萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とも言う。
神名の「栲」は「たへ」と同じく、梶の木の皮の繊維で織った白色の布を指し、古の布の総称としても用いられます。「幡」はここでは織物を意味し、命の機織の功を称えた美称として使われ「千千」は「縮」に通じて織地の精巧さを言ったものと考えられます。命は織物の巧みさ美しさを賞でられる神として技芸上達を願う人々の崇敬が篤く、七夕伝説の織女に機織をお教えになられたとも言われ、織物の祖神とされています。
今宮の奇石 阿呆賢(あほかしさん)
この阿呆賢さんは古くから「神占石(かみうらいし)」とも云われ、病弱な者はこの石に心を込めて、病気平癒を祈り、軽く手で撫で身体の悪きところを摩れば、健康の回復を早める。
また、「重軽石(おもかるいし)」とも云はれ、まず軽く手の平で三度石を打ち、持ち上げるに、たいそう重くなり、再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げる。
軽くなれば願いが成就すると言い伝えられております。
拝殿(はいでん)登録有形文化財
元禄7年(1694)に造営され、弘化3年(1846)に改修。
拝殿は幣殿正面に建ち、境内軸の中枢に位置する。毎年5月1日に今宮祭に出御する神輿3基が倉から拝殿に上げられる「神輿出し」が行われます。
拝殿の上部に掲げている三十六歌仙は、平成17年に「西陣の日」事業協議会から奉納いただいたものです。これら全ては西陣織で作られています。
桂昌院は、寛永5年(1628)、西陣で八百屋の次女に生まれ、名を玉といいました。
その後公家二条家に出入りの本庄宗利の娘となり、関白家の鷹司孝子に仕えましたが、やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、春日の局に認められて家光の側室となり、後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、晩年には従一位に叙せられ、世に畏敬されつつ、至福のうちに宝永2年(1705)79才で没しました。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、とりわけ西陣の産土の神の坐す今宮社が、当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)から、時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活され、「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭は往時を凌ぐほどの盛況を取り戻しました。更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を斎行したと伝えられています。(文京区音羽町に現存)
こうした桂昌院の業績は、没後三百余年を経た今日でも、神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子が多い。また、一面一介の市井人から、身を起こし乍ら、所謂「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、その生涯を偲慕する人々も少なくありません。
八社(はっしゃ)登録有形文化財
元禄7年(1694)頃建立。境内西側に、一棟に大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・諏訪社の八社を祀った細長い社があります。
元禄再興期に末社を合祀して建立されたとされ、境内再編の歴史を伝えています。
八幡社(はちまんしゃ)登録有形文化財
江戸後期頃に建立。石清水八幡宮の御祭神、応神天皇(おうじんてんのう)・比咩大神(ひめおおかみ)・神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りしています。
大将軍社(たいしょうぐんしゃ)登録有形文化財
元禄8年(1695)頃建立。大将軍八神社ともいい、素盞嗚尊と同一神ともされる牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子(八神・素盞鳴尊の五男三女)を祀る。昔、平安京の四方に大将軍社を建て祀り、都の鎮護としたが、その一つ大徳寺門前に祀られた社を当社境内に遷し祀りました。
日吉社(ひよししゃ)登録有形文化財
江戸後期頃に建立。近江の日吉大社(ひえたいしゃ)の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)をお祀りしており、当社産土の地「上野村」に祀られていた上ノ御前、下ノ御前の両社を明治初年に合祀しました。
紫野稲荷社の御祭神は伏見稲荷大社と同じく宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。
素盞鳴尊の御子神であり「宇迦」は食(うけ)の意で、食物を治められた功績による御名です。
織田稲荷社(おだいなりしゃ)
織田信長公とその家臣を祀ります。元々は上京区元伊佐町に阿弥陀寺があり、天正10年(1582)本能寺の変で倒れた織田信長公とその家臣を葬った所といわれています。
その後、豊臣秀吉の都市改造により現在の上京区鶴山町に移され、その跡地に織田稲荷社が鎮座されましたが、昭和62年に当社境内に遷し祀りました。
元禄7年(1694)建立。中央の若宮社は伊弉那美神・向かって右の加茂斎院は歴代斎王の御霊・左の若宮社は御霊を祀る。
中央の若宮社は昔、鷹峯に鎮座する愛宕社を現在の愛宕山に遷した際、御分霊として祀られたと伝えられています。加茂斎院は、元々は賀茂大神に奉仕する歴代天皇の未婚の皇女(斎王)がおられた座所(現在、上京区櫟谷七野神社付近)のことです。約400年にわたり奉仕したが、建暦2年(1212)に加茂斎院が廃止されました。その後、総鎮守の今宮社に歴代斎王の御霊をお祀りするため遷されました。左の若宮社は薬子の変に処罰された御霊を鎮めるため祀ったといわれています。
地主稲荷社(じしゅいなりしゃ)登録有形文化財
天保13年(1842)建立。石畳の坂を上った中腹の地主稲荷社には倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。両神は共に天孫降臨に関わる神として知られています。
当社地を守護する地主神として祀られています。
月読社(つきよみしゃ)登録有形文化財
明治43年(1910)建立。石畳の坂のつきあたり高台の上に月読社があります。
伊勢神宮の別宮月読宮(つきよみのみや)の御祭神、月読尊(つきよみのみこと)を祀る。
絵馬舎(えましゃ)登録有形文化財
寛政12年(1800)建立。かつて、神々は騎乗した姿で現れると考えられていた為、馬は神様の乗り物として神聖視されており、古くから人々は願い事をする際、神様への御玉串として馬を奉納していました。後にこれが絵馬となり奉納する殿舎が建てられました。
元禄7年(1694)頃建立。楼門の東側、東門との間に、多紀理姫命(たきりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る宗像社がある。
素盞鳴尊の十握剣(とつかのつるぎ)から生まれた宗像三女神です。

鯰(なまず)の台石

宗像社の社壇の側面の台石に長さ60㎝程の鯰の彫り物がある。この社は俗に「弁天さん」と呼ばれ、鯰は神の使者として彫られたものと云われています。
神馬舎(しんめしゃ)
神馬舎の中には、白い神馬が祀られています。神馬とは神様が乗る馬のことで、神社には木製や金属製、銅製など、様々な神馬さまが奉納されています。
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